#男子の思い込みはどう形作られたか率直に告白してみよう 作曲の師は「女にソナタや交響曲は書けない。女は感情的だから論理的な展開ができない。だから女に大作曲家はいない」と言っていた。ちなみに私はその師のもとで勉強をしていたころついにソナタを書けるようにはならなかったし、
声楽に転向して大学に入ってからは作曲科にたくさん優秀な女子がいることを知った。そして女性作曲者の作品が残っていない理由のひとつは女性が意思決定や経済に関して不利な立場にあり作品の保存にかかわる写譜や出版が進まなかったからだと知ったのは、もっと後のことだった。
男性研究者が、フリーランス女性通訳者を「キャリア志向のない」「セレブバイト」と認識し、いずれかの男性研究者の妻かもしれないと妄想し、自分ならその女性を妻に迎えられるかどうかを自問した結果、無理だと結論して「僕は絶対に勝てない」と思う。最初から最後まで失礼だし何に勝つつもりなんだ。
DaiGoはいじめサバイバーとしての体験を語るとき、大まかにいうと「誰の力も借りず自らの力でいじめを止めた上で、それまでの自分を自らの分析に基づき自らの努力によって変えたら、よりよい自分になれた」というストーリーを構成している。多分その新自由主義と親和性が高い視点を他者にも向けている
DaiGoはそれから生き延びる過程でどれだけ周囲に支えられたかは積極的に語っていない(多分、それを支えだったと本当に認識していない)。ところで私もまたいじめサバイバーなのだが、苦しみ抜いた末に両親に打ち明けることによって介入してもらったためなのか、その点の認識が全く異なる。
DaiGoのストーリーには修復的正義が登場しない。被害者は他者からケアを受けておらず、加害者は更生させられず、コミュニティが失った秩序も回復されていない。DaiGoは自ら立ち直ったかのように見えるが、暴力によって人の名誉と身体を傷つけて関係性を徹底的に破壊していく害悪は修復されていない。
DaiGoの憎悪扇動に対する今の批判はおおむね「ゼロ・トレランス」であり、応報的正義の現れだ。しかし彼の今回の言動の根本に先述のような彼個人の体験と教訓が本当に関わっていたのだとすると、修復的正義こそがかつての彼の救済に必要だったと彼に気づかせることで今の彼の更生を促すべきなのでは?
DaiGoが利用しようとしたNPO法人「抱僕」は、体よく利用されることを拒みながら、修復的正義を実践しようとしているように見える。加害者と対話し、必要な気付きと学びを得させ、最終的にコミュニティに再統合し社会に損なわれた秩序を取り戻すことを目指しているのでは? note.com/npohouboku/n/n…
ロスジェネ男性の大勢は、10代までに触れた文化の中で誰でも与えられて当然とされていたさまざまなものを20代以降になかなか得られずに自己責任論を内面化し、多くは代償としてまんがやアニメの幻想を摂取することで自分をヨシヨシして何とか生き延びてきたが、
かつて当然とされたものすらそもそも同世代の女性には最初からなかったことを知らず、それゆえにフェミニズムから異議申し立てを受けたとたん、必死で耐えてきたおれたちから大人のおもちゃを取り上げるなと言わんばかりに怒り狂っていて、そもそも自分たちをそうしつけた人たちに牙を向こうとしない。
私たちに本当に必要なのは、 #月曜日のたわわ ではなく、#月曜日のゼネスト 。 夢を見せたいならまず労働条件を改善しろ。 20代男性新入社員を読者として獲得したい青年男性誌も、40代以上の男性に支えられた経済新聞も、資本家男性に本当に都合の悪いメッセージを発しはしない。自分たちで発信しよう
こういう主張は聞き飽きました。 いま映画業界を席巻している批判の根拠は、とてもシンプルですよ。 誰しもダイヤモンドを採掘するために人殺しをしているやつらからダイヤモンドを買いたくはないように、映画を作るたびにレイプやハラスメントをしている映画人から映画を買いたくはないでしょう? twitter.com/TomoMachi/stat…
マルチディスプレイは職種によって、例えば編集、出版、翻訳などではごく当たり前だと思われます。 twitter.com/Shingi/status/…
短歌研究新人賞の座談会における斉藤斎藤さんの発言について。彼が瀧波ユカリさんの以下の発言のように言えなかったのは、彼が彼女と違ってフェミニズムを他者のテーマ、または乗ったり降りたりできる視点と見なしているからだ。実際にはフェミニズムは逃げようのない現実の問題を告発している。 twitter.com/takinamiyukari…
私も自分が住んでいる地方自治体の危機管理室にメールしました。下に、忙しい皆さんにもお使いただけるよう文案を掲載します。 twitter.com/kuriryuofficia…
東浩紀さんは発言者を左派と認識したとたんに言葉をまともに解釈できなくなる。初期からオースティンの言語行為論を参照して発話の事実確認性と行為遂行性を区別し、後者に比重をおいた議論を続けてきたが、その解釈は左派を相手にするたびに妄想の域に踏み込む。 note.com/hazuma1971/n/n…
福島瑞穂「つまりジェンダー平等や様々なLGBTQの問題、選択的夫婦別姓や、様々な人権問題、法律改正を自民党がもし仮に統一教会などの影響が大きいためにそれができなかったということであれば、それは日本の政治の問題であり日本の政策をどうしていくかということでそのことは明らかにされるべき」
東浩紀さんはこれを「『彼は統一教会と結びついていたのだから襲撃されるのもやむをえなかった』と解釈できるような発言」「テロの正当化につながる」と断じているのだが、言明の事実確認性より行為遂行性に注目しても(つまり福島さんの言葉を文字通りに受け取らず実際に何をしているかに注目しても)
彼が言うような「そのような意図がなかったとしても、誤解を誘導するような発言」とは少しも考えられない。こうしてみると東浩紀さんが初期に論じていた「郵便的不安」とは何だったのかと首をかしげざるをえない。認知が歪みすぎてまともなコミュニケーションを期待できない自分の不安を論じただけでは
東浩紀さんは初期は優れた哲学者だったという意見があるけれど、彼の問題は初期からずっと一貫して彼の思想の中にあると私は思ってきた。すべての問題は80年代以降のデリダを評価しないという彼の立場から発している。
例えば、統一教会をカルトと判断する立場に自分はないという東浩紀さんの発言は、南京大虐殺に関する過去の彼の発言と同じ根本を持っている。次にあげる。
東浩紀「南京虐殺があったという人となかったという人がいる。ぼくは両方とも友達でいます。このふたりを会わせて議論させても、話が噛み合わないで終わるのは目に見えている。なぜならばふたりとも伝聞情報で判断しているからです。」(大塚英志・東浩紀『リアルのゆくえ』)
大塚英志「南京虐殺があると思っているのなら、知識人であるはずの東がなぜそこをスルーする? 知識人としての東は、それに対するきちんとしたテキストの解釈や、事実の配列をし得る地位や教養やバックボーンがある」 東浩紀「そんな能力はない。南京虐殺について自分で調査したわけではないから」
かつての大塚英志さんの批判は、自分は統一教会がカルトかどうか判断する立場にないという現在の東浩紀さんの発言に対して現在の大学人たちが寄せている批判を先取りしている。かつて大学教員だった東浩紀さんなら当時は統一教会系のサークルに学生が巻き込まれていないか注視して当然だったはずで、
つまりは統一教会がカルトであるということが大学人の間で常識として共有されており、かつその根拠となる基本的な情報や証言を調べて読むのに必要な能力も大学人には備わっているにもかかわらず、応答のために判断を要する場面でかつて大学人だった東浩紀さんは南京大虐殺と同様に判断を中止してしまう