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Budivel'nykiv通りにある略奪された食料品店の外に、安定した通信接続が可能な場所がまだ1つあった。
1日に1回、車でそこに行き、階段の下にしゃがみこんで写真やビデオを世界にアップロードした。
階段は私たちを守ってはくれないが、野外にいるよりは安全だと感じた。
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しかし、3月3日には電波が途絶えた。私たちは病院の7階の窓からビデオを送ろうとした。
そこから、中流階級の街だったマリウポリがバラバラになっていくのを見た。
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店の屋根で砲弾が爆発し、私は外の地面に投げ出された。私は緊張して2発目の被弾を待ちつつ、それを記録するためのカメラを付けていなかった自分を100回呪った。
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そして、また砲弾が隣のマンションに命中し、ものすごい音を立てた。
私は角の後ろに身を縮め、隠れた。
その時、10代の若者が電子機器を積んだ事務椅子を転がしながら通り過ぎた。「私の友達もそこにいて、砲弾は僕たちの10メートル先に落ちたんだ。どうなったかわからない」と彼は言った。(続↓
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港側のスーパーが略奪されていたので、砲撃や機関銃射撃を受けながらそちらに向かった。
そこでは何十人もの人が走り、電子機器や食料、衣料を積んだショッピングカートを押していた。
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私たちは急いで病院に戻った。
すると20分もしないうちに、ショッピングカートに乗せられた負傷者が続々と運ばれてきた
数日間、外界とのつながりは衛星電話だけだった。その電話が通じるのは砲撃跡のすぐそばの開けた場所だけだった
私は座って、姿勢を小さくして通信の接続を捕らえようとした
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みんな「いつ戦争が終わるか教えてくれ」と言っていた。
私はそれに何も答えられなかった。
毎日毎日、ウクライナ軍が包囲網を破りに来るという噂が流れた。
しかし、誰も来なかった。
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3月9日、2機の空爆により、バンの窓を覆っていたビニールがズタズタに破れた。
火の玉を見たのは、内耳、皮膚、顔に痛みが走るほんの一瞬前だった。
産科病院から煙が立ち昇るのを見た。
私たちが到着したとき、救急隊員はまだ血まみれの妊婦を瓦礫から引きずり出していた。
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私たちのバッテリーはほとんど消耗していて、画像を送信するための回線もなかった。
夜間外出禁止令が出るまであと数分。病院爆破のニュースをどう伝えるか、警察官が私たちの話を聞いていた。
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この時までに、私は病院での死、路上の死体、集団墓地に押し込まれた何十体もの死体を目撃している。
あまりに多くの死を目の当たりにしたので、ほとんど受け止めずに撮影していた。
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私たちは死んだ金魚でいっぱいになった水槽のあるホテルの地下室に戻った。
孤立した私たちは、私たちの活動を貶めようとするロシアの偽情報作戦が拡大していることなど、何も知らないでいた。
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暗闇の中、携帯電話を3台並べて画像を送り、動画ファイルを3つに分割してスピードアップしたが、門限を大幅に超えて何時間もかかった。
砲撃は続いていたが、護衛の警官たちはじっと待ってくれていた。
そして、マリウポリと外の世界とのつながりは、またもや断たれた。
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「これは戦争の行方を変えることになる」と彼は言った。
彼は私たちを電源とインターネットに接続できる場所へ連れていってくれた
私たちは、たくさんの死者や死んだ子どもたちを記録していた。
私はなぜ彼がこれ以上死者を出しても何かが変わると考えるのか理解できなかった。
私は間違っていた
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この頃、マリウポリではウクライナのラジオやテレビの電波が全く入ってこなかった。
唯一受信できたラジオでは「ウクライナ人がマリウポリを人質にしている・ビルを銃撃している・化学兵器を開発している」といったロシアのプロパガンダを放送していた。
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一方、マリウポリでは、戦況の最新情報を求める人が殺到していた。多くの人が私のところに来て「私が生きていることを外の家族に知らせるために、私を撮影してください」と言ってきた。
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ロンドンのロシア大使館は、AP通信の写真を偽物とし、妊婦は女優だとする2つのツイートを発信した。
国連安全保障理事会では、ロシア大使が写真のコピーを掲げ、産科病院への攻撃について嘘を繰り返した。
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このプロパガンダは非常に強力で、私たちが話した人の中には、自分の目で見た証拠にもかかわらず、それを信じ込んでしまった人もいた。
ソビエト流のメッセージが絶えず繰り返される。
「マリウポリは包囲されている。武器を捨てて投降しろ」
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3月11日、詳細不明の短い電話の中で、編集者から「産院空爆で生き残った女性の存在を証明するために、その女性たちを探してもらえないか」という依頼があった。
この映像は、ロシア政府の反発を招くほどの威力があるに違いないと思った。
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私たちは包囲された。何十人もの医師、何百人もの患者、そして私たち。
病院を守っていたウクライナ兵の姿はない。食料、水、道具を積んだ私たちのバンへの道は、ロシアの狙撃手によって塞がれ、外に出た救命士をすでに襲っていた。
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その結果、前線にある病院で、赤ちゃんを連れた女性や陣痛中の女性を見つけることができた。
また、ある女性は赤ちゃんを亡くし、さらに自分の命も失っていることがわかった。
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私たちは7階に上がり、弱々しいインターネット回線からビデオを送った。
そこでは、戦車が次々と病院の敷地に迫ってくるのを見た。
戦車には今やロシアの紋章となった「Z」の文字が書かれていた。
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マリウポリに安全な場所はなく、救いもない。
いつ死んでもおかしくない状況だった。
兵士たちに驚くほど感謝しながらも、痺れを切らしていた。
そして、自分がここから去っていくことを恥じた。
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家族3人をヒュンダイ(現代自動車のこと)に詰め込み、市外まで5キロの渋滞に巻き込まれた。
その日、マリウポリから脱出した人は約3万人。あまりの多さに、ロシア兵は窓ガラスをプラスチックの破片で覆った車をじっくり観察する余裕もなかったという。
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何時間も暗闇の中で、外の爆発音に耳を傾けていた。その時、兵士がウクライナ語で叫びながら、私たちを捕まえに来た。
救助とは思えなかった。ただ、危険な所から危険な所へ移動させられたという感じだった。
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人々は神経質になっていた。人々は緊張し、喧嘩をし、互いに叫び合っていた。1分ごとに航空機の通過や空爆があった。地面が揺れる。
私たちはロシアの検問所を15カ所通過した。
その度に、車の前に座っていた母親が、私たちに聞こえる程大きな声で祈っていた。
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