文春オンラインに寄稿しました。 ドラマ『エルピス』について。現実の出来事をコラージュして「私の物語」を語ること、という観点から書いています。 実在の事件の扱いは、それで良かったのか? 今年最大の話題作『エルピス』、語られなかった「危うさ」 #文春オンライン bunshun.jp/articles/-/598…
特に「日本のインターネット」は、ああいうキャラクターをなんだかんだ好みがち。
イーロン・マスクのムーブを断片的に見てると一瞬ちょっと笑ってしまいそうになるのだが、そういう感じが人々のなかに生まれていくと、ロクでもない「親しみ」とネタ化を世の中に呼び起こして結果的に大惨事になるってのがいつものパターンなので、いかんいかんと思っております
しかし、「どこに行っても身分証提示を求められるような社会の何が問題なのかわかりません」みたいなことを、たぶん本気で書いてるツイートがそれなりに沢山観測されるの、マジでビビるな。国家というのが単なるサービス・プラットフォームのように認識されてる状況がやっぱりあるってことなんかなあ。
業界4団体が「一丸となって2人を支援することを決めた」ことが生むプレッシャーは、いろんな人を黙らせるだろうなあ。これからいろんな業界でこういう話が出てくるだろうね。それぞれの個人が自分自身の考えに基づいて抗議できる状況をつくっていかないと、マジでヤバい~ twitter.com/comecaML/statu…
芸能に限らずあらゆる業界・産業においてこういう話は今後どんどん切迫したものになってくるだろうから、個々人がいったい何をやらされるか・何に加担させられるか、わかったもんじゃない。みんな生活あるわけだけど、「ここだけは譲れない」ラインを自分なりにちゃんと考えないと本当に怖いことになる
政治家は、自らや自党に一票を投じたさまざまな人々のそれぞれ具体的な切実さを、常に考え想像しながら発言してくれ。
いま何が起こっているのかをきちんと見極めること/連帯可能性を広く模索することと、だらしなくノンポリシーになっていくことは、言うまでもなく違う。
「維新と組む」のを選択肢に入れることは、自分は絶対支持できない。その選択を「ウイングを広げる」とか「爪弾きにしない」なんてざっくりした話に言い換えないでほしい
これからこの国、「兵隊さんよありがとう」の感覚に埋め尽くされそうだ。アスリートの皆さん感動をありがとう、この人たちがこんなに頑張っているオリンピックを否定するなんて、貴様非国民か!っていう。 情緒と物語で国体を維持することを、市民の側が自発的に望むようになっていく。マズいって。
そして百田尚樹チャンネルに西野亮廣がゲスト出演するという情報を知る。なんだかなあ
いま30~40代ぐらいの男性で、ホモソーシャルなノリやパワハラ的価値観が大好きで今後もそこを変える気はないくせに、リベラルっぽい物言いやフェミニスト風の立ち振る舞いで自分のイメージをカモフラージュする奴、これからますます増えると思う。なんならそこに商機を見出そうとしてる奴も多いだろう
「今回のこともあって、より好きだけで生きられるようになった」? 「今回のこと」ってセクハラ報道ですよね? 箕輪「文春があって、仕事なくなったからサウナばっか行ってた」 佐渡島「箕輪さんが今回のこともあって、より好きだけで生きられるようになったのは良かった」 r25.jp/article/908506…
糸井重里は規律や父権への欲望を、寛容・素朴の記号でコーティングし隠蔽することに成功した稀有な「管理人」。後続世代でそれを真似たがる人間もいるが、糸井ほどの言葉の力が無いので上手くいかない。しかし糸井が作ってしまった空間性というのが、戦後日本におけるある部分の宿痾になっていると思う
コミュニティ参加のハードルを下げることを、「デザインレベルを落とす」という上から目線の設計感覚で説明するとこに、西野の姿勢が象徴されてると思う 西野「地方の主婦を見捨てないためにどうすればいいかを考えたときに、フライヤーのデザインレベルを落とすんですよ」 slowinternet.jp/article/202002…
実際、彼らのカモにされている人々のなかには、「自分の今の実力以上に、インスタントに成り上がりたい」という願望はかなり強くあると思うんだよな。それがあると、即効性がありそうな自己啓発的語りに惹かれてしまう。諸々をショートカットして上手いことやりたい、という欲望が渦巻いてるというか。
箕輪も西野も、既成システム(=出版界や芸能界)にまず座席を確保した後、自分の実力以上に無理矢理成り上がるためにはどうするかと目論んだ結果、オンラインサロンビジネスに辿り着いてる感じがするんだよな。 当初の座席から地道に研鑽を積み続けるには自分が力不足だという自覚は恐らくあったはず。
片山さつきのYouTubeチャンネルのゲスト陣からも改めて分かるように、彼女は明らかにネット右翼を票田のひとつと見做している。そういう片山に対して、幻冬舎箕輪厚介が「IT起業家の書籍ばかり作っている」自分の周囲では、菅政権は「めちゃめちゃ評判はいい」と楽しげに語ることはなかなか興味深い。 twitter.com/comecaML/statu…
政治家にやたら「親しみ」を求める気味の悪い感覚が、この20年ぐらいの間に社会のなかで膨れあがってしまっている。政治家たちの振る舞いを批判的に見たくない、政治家たちは自分たちと心情を同じくする「身内」であるはずだ、と考えたがる欲望が、そこかしこに渦巻いている。
星野源のANNでの、「うちで踊ろう」についての発言聞いた。安倍晋三の件に関する、公の場でのステイトメントが聞けたのは嬉しかった。ただ、星野が作家として根拠にしているのはやはり戦後的サブカル感覚で、その下部構造や環境管理者側(=権力)への言及手段を彼はほぼ持っていないんだなと改めて感じた
万一、箕輪厚介の件がこのまま社会に対するステイトメントも無しにうやむやになったら、ハラスメントについてちゃんと考えようとしている若い世代が、出版界や書店界の大人たちに対してひたすら絶望することになるんじゃないだろうか。
「女側がキチガイなだけ」「フェミニストという言葉そのものが分断を呼んでしまうと思ってる」「ダンマリも必要」。これらは箕輪編集室の人間たちが、例の報道以降にTwitterやnoteに書きつけた言葉。企画・デザイン、ライター、書店員を名乗る人間たちが書いた言葉。どれも今は削除もしくは非公開に。
箕輪厚介を常日頃推している人々、彼との交流や繋がりを各メディアで積極的にアピールしている人々の多くが、報道から一週間、まるで何もなかったかのように平然と振る舞っていたことを、ぼくは今後も忘れないですよ。
人がひとり亡くなったことを、SNS上で瞬間的に悲しんで自分の言説に組み込み、しばらくしたらすぐ忘れることそのものが、「リアリティショー的消費」である。
著名人が主催するオンラインサロンの何が危ういかって、大抵はそれが「主催者に気に入られたい人々のコミュニティ」になってしまうってところよね。で、大概の主催者はそういうワナビーたちの欲望をもちろん把握しながらサロン運営するので、タチ悪いよねえ。