受験が終わって放心状態のまま、地元のバンドに復帰。高校生バンドを集めた小規模なフェスが予定されていたので練習に熱中。バンド内でも「ようやったの」と和気あいあいな雰囲気で本番が近づく。で、フェス直前に東大の合格発表。新聞記者からの電話で通っていたことを知る。地元が大騒ぎに。
共通一次のあと、ハーバードから「アーリー・アクション・プログラム」つまり早期合否判定の枠で合格通知が届く。この時点で地元の新聞とテレビが取材に訪問。「おお、おれの作戦が実っているぞ」とエレキギターを出して撮影してもらう。その後、東大本郷キャンパスの二次試験へ。
確かにアメリカの共通試験(一次、二次という分かれ方をしておれずSATとアチーブメント・テストの2部門)では理数系が完璧に満点。これには自分でも驚いた。だが驚くべきだったのは問題の簡単さだったかもしれない。日本の平均的な学力があればほぼ全問わかる内容。
問題は英語で受験した場合、そもそも質問内容が理解できるか。とにかく共通試験をくぐった段階で自分はアメリカ国内の上位数%にいた。ただし英語で生活していなかったので「国語」にあたる英語の文法では間違いが多発。そんなこんなで年末、共通一次前に追い込みをかけ、ぴしっとした生活を送る。
後にハーバードに合格した同級生の話を聞くとよくある話らしい。自分としては「ふーん、ハーバードねえ。ま、おれは大学なんて別に行っても行かなくてもいいけど、やってくれって言うなら付き合うよ」ぐらいのノリ。地元のバンドの打ち上げ花火として東大一直線、という方がよほど大事だった。
で、その頃、両親が別件で熱くなったのが「これだけ難しい日本の受験問題を解けるようになっているのは、それだけでアメリカのアイビーリーグに合格するラインをクリアしているのでは?」ということだった。ハーバード大学なんてそんな大学があることすら、知らない状態で親に「説得」され、
アメリカの大学の入学願書にあたる「自己アピールのポートフォリオ」を作成した。これは親がアイデア出しや言い回しなどのプロデュースをし、最終的な落とし込みは自筆で行うという共同作業だった。この作業の流れにすら「チート」のような胡散臭さを感じていたが、
また、理数系の試験では上位3問がボスキャラ登場のような難関に設定されていた。79点から86点以上まで行くためには大変な努力が必要だった。その最後の3問のうち2問を取ろうとして睡眠時間を削る同級生も多数。だが引いてみると最終評価は全教科の合計なので、
私としては英語で楽をして古文・漢文の合計で20点を余計に確保しつつ、理数系の最難関の3問のうち1問でも0.5問(部分点)でも取れればいい、と割り切って勉強時間の無駄をカット。ニューウェーブやパンクのカセットを熱狂して聴く時間も浮いた。ただし追い込みの時期にはバンド活動を自粛して集中。
この作戦が「当たり」となり、校内で公表される順位がぐんぐんと上がり、旺文社の全国模試でも一度は名前が上位に掲載されたような記憶がある。このタイミングで監視をしていた張本人だった生活指導の教頭から褒められるようになり、ますます勉強に邁進する。教頭を「ばーか」と思いながら。
で、とにかくちょっと努力すれば英語の試験は2種類とも満点に手を伸ばせる。一方、平均的な受験校の競争相手は毎日1時間か2時間、英語に費やしている。このリソースが自分にとって、浮く。そこで英単語を暗記するための単語帳(キーホルダーのような短冊のようなアレ)を古文・漢文へと転用した。
要するにステータスの低い日本語をわざわざやった物好きな自分は米国籍の日本・愛国者だった。話をもとに戻すと、バイリンガルだったので英語の試験ではリーダーでもグラマーでも努力せずに高得点が取れる。ただし「定冠詞」「現在進行形」など日本語に一度変換して英語に再変換される設問は苦手。
◎その時点でたまたまだが、日米を往復する中でかなりのバイリンガルになっていた。同世代のインターナショナル・スクールでは漢字の読み書きができるレベルに達している者は希少。日本語がそれほど重要なものではなく、いずれ本国に帰国する腰掛けとして国際学校があったから。
そういう「特に誰にも注目されない」バンドのメンバー同士で盛り上がる中、「おら東大を受けて通ったら、おもしろまいけ?」とアイデアがある時浮かび、一同「おお、そうせい、そうせい。おまんが東大に通ったらおらっちもバンバンやちゃ」と大盛りあがりをした。結果、ネタとして東大一直線になった。
1980年当時、ヤマハの「ポプコン」やもどきの地方バンド予選は数々あったがどれに出ても冒頭から予選落ちし、「楽器も下手で発想もおもしろくない」と酷評され続けた。が地元のカリスマ「FUNX」がこの手の審査員に対して攻撃的に振る舞っていたのでそれに勢いを得て、自分らの方が上だと思っていた。
◎遊びに行けるのは遠く離れた富山市だった。そこでバンド活動をしていたが、自分が入っていたバンドは花形の「FUNX」というバンドの二軍、三軍のような存在で特にカリスマでもなく、生意気を言っている高校生の集まりでしかなかった。ただし好きなバンドへの熱狂度合いはひけを取らない感じ。
◎一緒につるめる同級生が主に「不良」だったため、マークされた。風紀を乱す存在とみなされ、自主退学を勧められた。 ◎富山県高岡の学校に移ったところ、現地の教頭が広島の学校に問い合わせてより徹底した監視体制を敷いた。軽音楽部も退部させられ、学校からの説明は無し。
◎そこで「この機会に日本の学校に戻りたい」と両親を説得し、広島市の進学校に戻る。 ◎しかし広島で男女交際、ディスコで踊る、ゲーセンに行く(いずれもアメリカ基準では問題なし。ただしアメリカでは体育館が毎週金曜にディスコになり、日本には該当する場がなかった)などの行動が問題視された。
対応が常態化しています。1980年代から現在までのインタビュー記事の原本、スクラップブックをデジタイズする過程でこのパターンが歴然と浮かび上がりました。ここでクリアにしたいのは: ◎日米の難関大学を同時受験したのはいろいろなことが複雑に重なった結果の成り行きだった。
◎一例として1978年にカリフォルニア州の州民投票の結果、固定資産税を減税するかわりに公務員の給与カットされることになり、公立高校の教師たちが一斉にストライキを起こし、数カ月間の混乱が続いた。つまり「上から」学級崩壊した。授業はほぼ自習で生徒に八つ当たりする教師もいた。
との思い込み(3)私が達成したこと、あるいはうまく行かなかったことから法則性を抽出することが可能で、特に受験生を持つ親にとっては貴重な資料が満載…などなどです。取材の過程でじんわりと決めつけやはめ込みが起きていく傾向を感じ取っております。
自分が繰り返し同じジャンルの質問をされる中で感じてきたのは(1)私が東京大学とハーバード他に同時合格したので至高の成功事例であり、模範であるとの思い込み(2)私の身に起きたすべてのことが一本の太いストーリー、いわば歴史的な氏名に貫かれており、そこにははっきりとした因果関係がある
「日米の文化のはざまで苦しんだんだ。差別されたんだ。それでも負けずに戦って同時合格という勝利をつかんだんだ。今はテレビにいっぱい出ていて、誰もが認める成功者なんだ」というテンプレ(と呼べるのか)、四捨五入された大味なヒーロー像に流し込みたいという前のめりな、いや、つんのめった
「みんなで一つの方向を向く幸福モデル」から離脱することを意味するわけです。したがって「成功者が教える、次の時代に生き残る鍵となるSDGs」は自己矛盾しています。なにをもって成功とみなすかを学歴、肩書、収入といった「外から見た物差し」だけに収斂させず、自分が本当は何をしたいのか
つまり「こうすれば解決する」という単純な「正義」がない。みんなで目指すべきお手本もない。ただ、インスパイリングな事例はどんどん出てくる。それが新しいのです。複雑な状況を単純化して本質を掴むという方法論ではなく、複雑なものを複雑なまま受け止めることが必要になります。