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車でも水の入る所には、要所要所で鉄ボルト使ってるもんなぁ。「コスト的な問題は、材料を鉄にする事で大体は解決する」って軽量化が命題としての話しか頭になかった時は、錆びたボルト見つけた時は、「こんな所でケチって…」って思ってたけど、アース走ってる部分の腐食予防の為と知った時は驚いた。 twitter.com/tokokaiun/stat…
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すっげー大昔なんですが、レーザージャイロなんかなくて、機械式ジャイロコンパスの時代に、とある国のミサイルに積まれてた誘導用ジャイロのベアリングと、家電量販店で販売していた日本製VHSデッキのベアリングと比較したら、VHSデッキの方のベアリングの方が真円率が圧倒的だったという話が。 twitter.com/redcrab_librar…
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会計隊のOBが退官後、官公庁と取引ある民間に就職したら、官絡みの取引が劇的にスムーズになったとか聞いたことが。OB風ふかせてとかではなく、やたらわかりづらい書類やら許認可申請がその人の手にかかると不備で不受理になる事がほとんどなくなったとかでw twitter.com/scomb/status/1…
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ワイの思考
・開戦前に三方包囲されての分進合撃でもうダメだ
・野戦憲兵やら輸血製剤の輸送が確認されて周到な計画もうダメだ
・開戦直後に首都近郊に空挺強襲、地上軍とのリンクアップ限界から考えると3日で首都は落ちるもうダメだ
・各所で戦線突破、コレから突破口広げて第二梯団もうダメだ twitter.com/jedimaster320/…
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新千歳空港そばに、美々貝塚って食い終わった貝殻を投げ捨てた6000年位前の遺跡があるんだけど、今は千歳市のゴミ処理場があって、あの土地には人類がゴミを捨てたくなる何かがあると信じている。
結構前に訪れた時、ゴミ処理場の矢印看板に、「創業6000年!」って知的な落書きされてて爆笑した。
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記事読んだ。ストーリーとして美化されすぎた「釜石の奇跡」が下地になってる感じ。大人が高齢者を誘導してもダメだった、大槌や山田、南三陸の話は教訓にしなかったのだろうか。津波てんでんこはどこに行ったのだろう。 twitter.com/hidemura_2009/…
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あ、ちなみにお客さんの親父さんは国民義勇戦闘隊に招集されて、現地で武装解除投降。シベリアに送られる事なく、現地で半軟禁みたいな状態で、3年後に帰還したそうです。苦労はなされましたが、戦没者はいなかったと言う話でした。
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そんな感じで、1時間以上も貴重なお話しをお聞かせ頂いた訳で。奥様が帰り際に、主人が私も知らない事をこんなに話したのは初めて…とおっしゃっていました。雪解けしたら、噂だけだった収容所の跡地に行ってみようと思う。
長文連投ですが、生き残りに方々の体験談をお裾分け。
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そんな混乱の中で、タコ部屋の人達が監視付きで市内に買い出しに来た時に、色々オマケをしてあげてた商店があったそうで、そこの商店には朝鮮人が寝ずの番をしながら、同じ朝鮮人からの略奪から守ってくれてたと。ちなみにそこの商店は過疎化の中で今も商売してる数少ないお店らしい。
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そして一緒に解放された日本人労働者も朝鮮人に混じって略奪してたらしいですが、「お前!日本人だろ!」とたちまち袋叩きにあって、警察に引き渡されたと。負け戦は本当に嫌なもんです。
その後9月ぐらいに戦争捕虜移送の為、進駐軍がきて市内は沈静化したそうで。
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あっという間に夜逃げしたらしいです。そして解放された朝鮮人労働者が、市内で略奪して歩いてたと。乱暴される事は無かったけど、何処そこの時計屋さんは全部時計取られたとか、どこそこの米屋さんでは何々と、本当に詳細に記憶されてました。
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戦争捕虜収容所(メリケン部屋と呼んでたらしい)は遠くから見る程度だったけど、炭鉱タコ部屋は市街地に程近く、朝鮮人8割日本人2割位で借金したり騙されたりして来た人がいたらしい。当然劣悪な環境だったのであろうけど、終戦の日の夜には、タコ部屋の監督してた人は家族もろとも姿を消したと。
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そして奥様は美唄生まれの美唄育ち。空襲も何もなく、本土に食糧を送る船が無くて、戦争が始まる前より食べ物が多かったと、女性らしい視点で戦中戦後の事を話してくれた。噂には聞いていたけど、美唄には戦争捕虜収容所と炭鉱のタコ部屋があったそうで。
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ただ、後の横綱大鵬が同じ船に乗ってた事は後日知ってたそうで、「横綱の乗る船は運がいい」と話してた。その後、お客さんの乗った船の運命も知る事無く、ひたすら歩いて現在の美唄に落ち着いたと。戦後しばらく経ってから、小笠原丸のその後を知ったと。
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そのお客さんに、小さい船は小笠原丸という船で、出航は8/20。大きい船は第二新興丸といって、同じく留萌沖でソ連潜水艦に襲撃を受け大勢の死傷者を出したと話したら、10日も歩いていたのか運が良かったと、大笑いしてた。あまり当時のことは調べたり思い出したりしてなかったそう。
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これが運命の別れ道になった訳ですが、お客さんが乗船した船は、逓信省電䌫敷設船小笠原丸。稚内を出航後小樽へ向かう途中、ソ連潜水艦の雷撃を受け沈没。乗員乗客約700人の内、生存は約60名と。
戦後、あの友達も「何故寂しい」なんて言ったかわからないと。
そんな事もあるんですね。
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すし詰めで何とか乗船して、半日弱で稚内入港。お客さんは親戚の家が近いので、次の小樽まで乗ろうとしたけども友達とその母親がしきりに
「寂しいから一緒に降りよう」
「心細いので、一緒に降りて親戚の家まで一緒に来てください」
と言われて、また歩くの嫌だなぁと思ったけども、母親が下船を決意
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大泊で晩飯に米を炊いていた時に、学校の友達と遭遇。半日遅れで到着して彼の家族が言うに、明日北海道行きの船が出ると。
翌日乗船する際に、少し早く出航する小さい船か、少し遅れて出航する大きい船のどちらを選ぶかで悩んだらしいけど、件の友達の家族が稚内で降りるので、そちらに。
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また数日歩いて、大泊に着いたと。お客さんが現地で知った時の時間が、リアルタイムの時間と戦後整合されてしまって、お客さんの記憶も若干修正されてる。豊原着はどうも8/17位だけど、そこでお客さんは終戦のニュースを知ったので、8/15着と思ってた感じ。
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それからは、昼夜を分かたずひたすらに歩いたと。人生で1番歩いたらしい。鉄道は空襲受けたりして使えずに、ただひたすら歩いたと。何日めか判らないけど、豊原に着いた時に終戦を知ったと(15日かどうかは不明)。そして、「朝鮮人がソ連と連携して暴動を『起こすらしい』」という「噂」で、大泊へ。
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日付は不明だけど、11日ぐらいらしい。お客さんは当時12歳。家のそばにあった、憲兵隊の建物も騒がしくなってて、いつもは私服の憲兵隊の兵隊さんが、軍服を着てたのが印象的だったと。そして、憲兵さんがひたすら「豊原か大泊に行け」とメガホンで絶叫してたそう。