名誉棄損罪は、事実であれば、政治家相手にはまず適用されませんけど、侮辱罪ってそういう違法性阻却の要素がないんですよね。「あべしね」に限らず、左派のみなさん、割と権力者や政治家相手に好き勝手言ってますけど、厳罰化された侮辱罪、普通に適用対象になりかねないのは気づいてるんでしょうか。
「あべしね」を表現の自由だと言うなら、ヘイトスピーチも表現の自由なのか、という御指摘を頂戴していますが、何をいまさら、ですね。自由に決まっています。憎むべき言論を擁護せずに、なにが自由ですか。自由に発話させ、そして徹底的に批判すればいいのです。
#投票は香典じゃない ってハッシュタグ、いよいよ極まってきてますね。いま、あえて自民党に投票しようとする人の投票行動や感情を、「香典」と評してしまうことの致命的な想像力のなさ、傲岸さ、政治感覚の欠如……。
アカデミアのみなさんが一生懸命、故人の評判をさげようと、英語ツイートで世界に発信している言葉の数々がタイムラインを駆け抜けていくのですが、なんというか、そういうところだぞと。 twitter.com/akishmz/status…
いま、火だるまになりながら私、表現の自由を擁護してるんですけど、「表現の自由戦士はエロしか守らない戦士」のみなさん、こういうのは絶対になかったことにしますよね。いや、別にいいんですけど。
「あべしね」なんてなかったって言う人たち、本当の本当に忘れたのかな。歴史修正が習い性になってませんか。 twitter.com/hide3pe/status…
いや、さすがにそれは事実と異なりますよ、米山先生。「あべしね」をネタのように扱い、口にするリベラルを私も多く見かけましたし、生首に擬した仮面を轢き潰すような暴力的なパフォーマンスだって数おおく見られた。そうした表現も自由だというのは理解できますが、なかったことにするのはダメです。 twitter.com/RyuichiYoneyam…
もとから諸刃の剣だったのに、一部の人達が後先考えずに振り回してただけなんですよ。もともとね。 twitter.com/Shu_shinkei/st…
「してはいけない」じゃない。政治家が開かれた場所で選挙を戦い、凶弾に斃れたのだから、彼は民主主義に殉じたのですよ。彼の思想を好むと好まざるとにかかわらず。
誰かを叩きたいときに、特定の宗教団体を持ち出して、レッテルを貼ればそれで事足れりとしてきた人々がいました。私も、戸定梨香氏を応援する署名運動のときに、同じことを左派・リベラルのみなさんにやられた。そういう「風潮」があったことはまったくの事実でしょう。否定できますか。
それでもなお、表現の自由は守らなければならないんです。思想は自由でなければならない。政治家や権力者を憎み、死を願い、悪しざまに罵る言葉の自由を、歯を食いしばって擁護しましょう。なぜなら、それこそが安倍元首相が殉じた民主主義の理念そのものだからです。
私は「アベ〇ね」と口にする自由を擁護します。そのうえで、そのようなことは決して言うべきではないと批判するでしょう。「私は君の言うことに反対だ。しかし、君が言う権利は命を賭けても守ろう」、その言葉のとおりに。
表現の自由と多様性を擁護する者として、はっきりと言っておきます。私がエロ表現の自由や意義を擁護してきたのは、それがまさにもっとも規制の危険性のある分野だったからです。ならば、今、もっとも擁護すべき表現とはなにか。政治家や権力者を悪しざまに言い、死さえ願う言葉の数々にほかならない。
政府の悪口を言った人々は、実際に銃で撃った人とはまったく別だ。ただの悪口にとどまる限りにおいて、微塵も責任を負う必要はありません。エロ漫画が性犯罪を引き起こしますか? AVは? こんなこと、表現の自由って理念の基礎の基礎じゃないですか。 twitter.com/ochyai/status/…
例えばですよ。もし、立場を入れ替えて、右派のオタク青年が、フェミニストやリベラルをテロで攻撃する事件が起こったと想像してみましょう。「大日本オタク報国会」がやり玉に挙げられることは容易に想像できます。誰かの死を、対立者を攻撃する材料に使うことは、厳に、厳に慎まれるべきことです。
宮崎勤の事件によって、オタク表現全体が攻撃され、「10万人の宮崎勤」に象徴されるような社会の雰囲気が生まれた歴史を、今こそ、私たちは思い出すべき時です。衝撃的な事件ほど、言葉狩りや思想・言論・表現全体への抑圧につながらないよう、注意しなければなりません。
いま、安倍元首相の悲壮な死を前に、「アベ〇ね」とか、心無い言葉や表現で攻撃してきた人々や思想への怒りを募らせるのは、わかります。私も同じ気持ちです。でも、個々のテロリズムと表現・言論を結びつけることには、私たちは慎重であるべきです。
責任を風潮に押し付けてはならない。風潮を生み出した言葉に押し付けてはならない。今こそ、声を大にして、政治家や権力者に乱暴な言葉をぶつける自由を、暴力的な言葉への寛容を、擁護しなければなりません。銃弾への恐怖から自由や寛容を抑圧するなら、それこそテロリストの思うつぼです。
安倍元首相に銃弾を放ったのは、「アベ〇ね」を繰り返した人々の言葉ではなく、テロリストです。小田急線の死傷事件は、男女差別的な風潮の犠牲ではなく、凶刃を振るった犯人です。性犯罪を犯したのは、AVやエロ漫画の生み出した風潮ではなく、性犯罪者本人にほかなりません。
菊池先生、それは違います。風潮が人を殺すというのは、とても危険な発想です。テロリストの銃弾が人を殺すのであって、風潮が殺すわけじゃない。それをちゃんと区別しなければ、「悪しき風潮を蔓延させる表現を規制しよう」という発想につながっていく。 twitter.com/kikumaco/statu…
どれほど酷い言説であったとしても、現実のテロと関連付けて批判されるべきではありません。私も体の奥底から怒りの感情がこみ上げますが、ここで、歯を食いしばって、「それでも自由なのだ」と言えずして、言論の自由など存立しえません。
このような事件が起こってもなお、私たちは「アベ〇ね」と口にする自由を擁護しなければなりません。それは表現の自由であり、政治的風刺の範疇だからです。そして、それと同時に、そのような自由を危殆にさらした、このテロを許してはならない。 twitter.com/gerogeroR/stat…
シャルリー・エブド誌が襲撃されたとき、フランス国民は左右を超えて「私はシャルリー」と直ちに声を挙げた。それは自由の危機だったから。ならば、日本国民は今こそ「私は安倍とともにある」と、思想を超えて、声を挙げるべきじゃないのでしょうか。かつて「I am not Abe.」と口にした人々も含めて。
暴力は絶対に許されない、ってその一点で筋を通すことがなんでできないんですか? いま、暴力に迎合することがどういう政治的意味を持つか、そのぐらいのことさえ考えられないんですかね。
そうじゃないだろ。気に入らない対立者だから、暴力で口をふさぐ、そういうやり方は許されないって話ですよね。なんで自業自得みたいな発想につながるんですかね。 twitter.com/justastrawdog/…