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・特攻の母 鳥濱トメ・
私の祖母・鳥濱トメは戦中、軍指定の食堂「富屋食堂」を営んでいました。当時、物が無い時代に特攻隊員達のお腹を満たしてあげるため家の家財を投げ売り食材に換え、テーブルいっぱいにご馳走を並べてあげました。特攻隊員達は「こんなご馳走食べさせてくれるのは嬉しいけど俺
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訃報
祖母・鳥濱トメと深い親交があった石原慎太郎さんが他界されました
石原慎太郎さんは、人を誉めません。でもたった一人だけ誉めた人が居ます
私の祖母・鳥濱トメです
「トメさんは菩薩様のような方だ」と
トメ亡き後は私の母・礼子とも交流が続き、私も慎太郎さんには良くして頂きました。
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・・鳥濱トメ 命日・・
今日(4月22日)は私の祖母・知覧特攻の母 鳥濱トメの命日にあたります。
祖母のトメは戦中、軍指定の食堂「富屋食堂」を営んでいました。当時、物が無い時代に特攻隊員達のお腹を満たしてあげるため家の家財を投げ売り食材に換え、テーブルいっぱいにご馳走を並べてあげ
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は、本当に優しすぎるぐらい優しくそして深い愛情を注いでくれました。その事は今でも私の心に刻まれています
きっと今頃は天国の富屋食堂で散華されました特攻隊員達と鳥濱トメとで肩を組み皆笑顔で同期の桜のを唄っている事でしょう
今の日本を見守りながら
合掌
知覧特攻の母 鳥濱トメ 孫
赤羽 潤
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げました。特攻隊員達は「こんなご馳走食べさせてくれるのは嬉しいけど俺達はそんなにお金は持ってないよ。」すると、トメは「男の子がお金の心配なんかするんじゃ無いの」と、言い特攻隊員からはお金は一銭ももらいませんでした。
トメが私によく言ってました「私はねぇ皆のお母さんになりたかった→
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に足を運び手を合わせ、語り部をしていました。
夏の暑い日照りの日も、真冬の凍るような寒い日も、雨風の強い日も片手に杖を突き、もう片方の手には線香と花を持ち傘も差さずに雨に濡れながらの慰霊の日々でした。1年365日1日たりとも欠かした事はありませんでした。
私にとっての祖母・鳥濱トメ→
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の」。
そして、出撃の時には見送りに来る事が叶わない隊員達のお母さんの代わりに飛行場まで都度見送りに行きました。
トメは特攻隊員達の心を自分の心で優しく包み心の奥底の声を聞き、受け止めてきました。
戦後、トメは「あの子達は、もう本当の事を語ることが出来ない」と言い、毎日特攻観音堂→
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達はそんなにお金は持ってないよ。」するとトメは「男の子がお金の心配なんかするんじゃ無いの」と言い特攻隊員からはお金は一銭ももらいませんでした
トメが私によく言ってました「私はねぇ皆のお母さんになりたかったの」
そして出撃の時には見送りに来る事が叶わない隊員達のお母さんの代わりに飛行
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日も雨風の強い日も片手に杖を突きもう片方の手には線香と花を持ち傘も差さずに雨に濡れながらの慰霊の日々でした1年365日1日たりとも欠かした事はありませんでした
私にとっての祖母・鳥濱トメは本当に優しすぎるぐらい優しくそして深い愛情を注いでくれましたその事は今でも私の心に刻まれています
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場まで都度見送りに行きました
トメは特攻隊員達の心を自分の心で優しく包み心の奥底の声を聞き受け止めてきました
戦後、トメは「死んでいったあの子達はもう本当の事を語ることが出来ない」と言い毎日特攻観音堂に足を運び手を合わせ語り部をしていました
夏の暑い日照りの日も真冬の凍るような寒い
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知覧 特攻隊(長文になります)
知覧から飛び立って行った特攻隊は昭和20年の5月から6月にかけてでした。
439名の若い特攻隊員達が、たった一つしかない命を散らしてでも守りたいものがあった。
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知覧 特攻隊
母(礼子)が遺した記録
稲田光男 伍長 18歳
知覧基地より都城基地へ移動する際に私の母(礼子)達に書き残した手紙
現物は風化により開くことができなくなり礼子が下記写した物です。礼子の直筆は写真にて
皆さんさようなら
僅かな時間で急いで書きます。文も字も至って不器用でがま
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眠る魂を震わせる
学校では先の大戦を学ぶ為の教科書が無い、先生も教える事ができない。
私は日本各地の学校で鳥濱トメと特攻隊の講演会を行っております
子供達も真剣な眼差しで私の話を聞き入っております
講演中盤頃には大半の生徒が鼻をすすり涙を流します
1時間半の講演の最後に鳥濱トメ
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