1
スプツニ子氏は人工知能学会のほうきを持った女性アンドロイドの絵を女性差別的だと強く批判していた人だよね。それが、同じ現実の女性の、多くの場合経済格差に起因する代理母ビジネスを手放しに称賛してしまうという、この想像力の偏りはなかなか考えさせられる
2
京王線のやつ、「最初はハロウィンかと思った」っていう乗客の証言がリアルで怖い
3
「ゴールデンカムイは政治的に正しい」みたいな言い方で個人的に気になっちゃうのは、その命題自体の正誤よりも、自分の好きなフィクションを好きと言うときに“社会”を迂回しないといけない、社会規範的に正当化可能でなければいけない、という意識がありそうなところ
4
虹夏ちゃん彼氏持ち概念とかNTR二次創作とかって、あえて自分に「痛み」を感じさせることでより強い実感をもってフィクションを受け止める態度なのかな、と思うときがある。電脳コイルの「痛みを感じる方向に、出口がある」という金言を思い出す
5
社会性に問題のある主人公がスポ根的に叩き直されるのではなく、理解のある友人や仲間に支えられながら自分の居場所を得て少しずつ自信をつけていく、社会に受け入れられていくという大きな流れが最近のアニメにはある、みたいな話が昨日の低志会であったけど、これは要約としてわかりやすい気がする
6
「異常独身男性」とかもそうだけど、「中年男性は狂う」みたいなレトリックにはあえて自分を下げてネタにする自虐的自己愛っぽい響きがあって、そのこと自体がとてもセルフネグレクト的で、しかしそういう論法でしか語るすべを持たない、という感覚もなんとなくわかってしまうのよね
7
TLの男たちの知見を結集した結果、わたしたちが教室で小難しそうな本をこれみよがしに開いて周囲を威圧してしまうのは、きっとどこかにいる君だけに「あ、その本いいよね。わたしも好き」って話しかけてもらうための “祈り” の所作であったことが明らかになりました。いい話だ…
8
依存を減らすのではなく依存先を増やすことが逆に自立につながる、という熊谷晋一郎氏の主張と重なるけど、そもそも依存先をたくさん持てる、いろいろなコミュニティに所属できる人はそれだけ高いコミュ力を持っているからで、だいぶ強者感があるのよね
9
けいおんがブルジョワというのは当時から言われていて、そもそも日常系アニメ自体がゼロ年代後半の失われた何十年やらデフレ経済やら非正規雇用やらの経済的な苦しさや見通せなさのなかで夢見られたカッコつきの「日常」だったわけで、そのあたりの話は『“日常系アニメ”ヒットの法則』にも書いてある
10
日常系はざっくりいえば、趣味の共同体によって生きる意味や強度や共助を調達して厳しい経済環境をサバイブしていこう、みたいな一種のコミュニタリズムの思想として理解可能で、ぼっちざろっくもほぼ完全にこの路線だと思うけど、けいおんよりはるかにシビアな感じになってるのが見ててしんどかった