異世界に実家の家ごと移転した引きこもりの男。独り暮らしで家族はいない。のだがそもそも引きこもりなので転移に気付かないまま半年過ごす。なぜか冷蔵庫の中身も減らないし、電気水道ガスも生きているのだ。おかしいなと思うまでに半年かかりました。鬱なので仕方ないです。
どうやら異世界転移したらしいことに気付いたのは、塀の向こう側に異形の生き物の姿を確認したからである。流石にベランダに三年ぶりに出たが、なぜか敷地内に入ってこれないようなので放置した。鬱なので。何か行動起こす心の体力がない。
手入れしていないのに父が生きていた頃のように庭は綺麗で花が咲く。向日葵が咲いているのを見て夏なのかとげんなりしたが、あまり暑くはなかった。気候がちょっと違うらしい。
なぜかこの家の敷地の中にいると歳を取っていないかもしれないと気付いたのはデジタルの時計のカレンダーが20年経過したのを示した頃だ。カレンダー壊れたかと思ったけど、パソコン他の時計も同じだ。なにこれ怖い……ようやくちょっと危機感が湧いたものの、家から出る選択肢はない。鬱なので。
以来恐る恐る庭に出てぼんやり外を眺めるようになったけれど、塀の先にはなんかモンスターみたいなのがいるっぽい。庭には父が植えていたチューリップとパンジーが咲いている。春が来ていたことに気づくが、いい思い出がない。鬱なので。
86年カレンダーが歳月を刻んだ頃、ちょっとだけメンタルが持ち直してきて、90年近くぶりに軽トラに乗って外に出た。よく軽トラ動いたなとかガソリンどうなってんのとか、疑問については考えないことにした。考えたら負けだ。
この頃モンスターに追われて家の前に逃げ込んできた外国人を二人ほど匿ってやったりした。門前に死体はちょっと…。家の中で適当に飯を出してやった後で追い出した。めっちゃ話しかけてくるからだ。二度と来るなと念を押したせいか来なかった。
モンスターは轢き殺して軽トラは軽快に進んだ。オーディオには母が好きだったグループサウンズのカセットが入っていたのでそれを聞いてみた。特に外に目的はない。帰ろうと思ったら傷だらけの男を見つけた。嫌だけど軽トラの荷台に載せて帰った。
男はめっちゃ怪我していたが適当にタオルで体を拭いて仏間に転がしておいたら、数日で元気になった。そして男に「あなたはこの森の奥に住まうという伝説の魔法使いですか?」とトンチキなことを聞かれた。確かに三十越えた童貞だが正式な意味での魔法使いではない。違うと答えて部屋に引きこもった。
「お願いします!俺と一緒に魔王を倒しに来て下さい!!!」部屋から出ると男がそうやって人の手を握ってくる。なにこのパーソナルスペースの狭さ。引きこもりには拷問みたいにグイグイくる。「やだ」「無理」「帰れ」の三語を駆使して追い出そうとするが、やたらガタイのいい男はへこたれない。
捨ててくれば良かった…と後悔するも、時すでにお寿司。強引な男が引きずっておんもに出そうとしてくるので、待て待て待てマジで待って軽トラで行こう、と折れてとりあえず外には出ることにした。
めっちゃ怖いことに外に出て玄関の鍵を閉めたら家が消えた。ぎょっとして「俺の家!」と叫んだら目の前に鍵穴みたいなものが浮かび上がったので、そこに鍵をさして回したらまた家が現れた。そういうシステムなの?90年経過して初めて知るシステム。
軽トラでトコトコ走って魔王の城まで行ったりなどした。拾った男は騎士らしく途中で他の仲間と合流などしたが、別に他の人間に会いたくないので引きこもりは面会を拒否してぼんやりと荷台の上でお茶を飲んだりなどした。
家にはどこでも帰れるので適当なとこで家を出して休んだり寝たり出来るのであるが、騎士を閉め出そうとしても逃がさないとばかりに始終ついて回られているので、逃げるのは諦めた。バイタリティーのある人間には勝てない。こちとら引きこもりの鬱だぞ。
そして魔王は軽トラで轢き殺した。人間ぽくない形のものなので、遥か昔に教習所の教官に言われた「轢くかもしれないと思ったものが動物なら轢きましょう。急ブレーキはダメです」という言葉が脳裏をよぎった。仕方ない。これが交通安全というものである。軽トラ急に止まれない。4WDだし。
魔王を倒した功績でお城に呼ばれるとかいう悪夢みたいなことを騎士が言い出した。城を軽トラで走り回っていいならいいよって言ったら行かなくて良くなった。さて帰ろう。あの人はなかなかやってこない深い森の中へ……。
結論から言うと引きこもりはバイタリティーのある人間には勝てなかった。モンスターが減って安全度の増した森の奥に騎士は週三で来てカップラーメン食って帰るようになった。あとめっちゃ家の中を掃除されるし、お土産と言って訳のわからない置物や酒や服を持ってくるようになった。
「日の光に当たりましょう」とか言って軽トラでピクニックに連れていかれたり、近くの村の祭りに行こうと言って連れ出されたり、引きこもりは基本的に軽トラから離れずに過ごしたが、連日そうやって付き合わされた結果、人間の気配というものを思い出してしまったのだ。
引きこもりの家は二階建ての一軒家。かつては父と母と祖父と祖母と引きこもりが五人で暮らした田舎の木造家屋だ。一人で暮らすには広すぎて、何年も開けてない部屋だってある。そう、両親の部屋とか、開けてない。急に二人が死んでしまう前だって、そんなに入ったことが無かったが。
もう何年も麻痺していたが、こんなところに一人でいるのは、本当は寂しいはずなのだ。けれど寂しがる体力も、人を恋しがる気力もなくて、何十年も生きてるだけの死体をしていた。ほとんど死体だった。
最悪なことに騎士が帰ってしまうと、部屋に一人でいるのがとても悲しくなってくる。一人でもそもそと食べる食事に虚しさを感じてしまう。来訪を告げる玄関のブザーが鳴ると(騎士はインターホンを覚えている)なぜかホッとする。
何年もそうしているうちに、やがて最初は明らかに自分より年上だった騎士が、少し歳を取ったことに気付いた。初めは少年の気配が漂っていたのに、背はのびきって体は屈強になり、髭を生やすようになり、そして笑顔の時目尻の皺を深く感じるようになった。
自分が歳を取っていないことを引きこもりは思い出した。この家の中にいる限り、自分は歳を取らない。ずっとずっと30代前半のまま、ずっとずっと親を亡くした時のまま、ずっとずっと自主退職した時のまま。ずっとずっと。
引きこもりは家を出ることにした。田舎、騎士の実家の領地のはじっこらしい長閑な村に一軒家を貰って、村人に教わって見よう見まねで果物などを育て始めた。家を出たと言っても冷蔵庫の中身や風呂やトイレは恋しいので、それらは実家のを使っているが、普段は新しい家で過ごしている。
だんだんと喜怒哀楽が仕事をするようになり、騎士とは喧嘩もしたし、口論の末ギャン泣きしたし、酒を飲んで笑い合うようなこともしたり、友情を深めていった。深めすぎて酒の席で「ずっと一緒に居たい」などとこぼしてしまったが、騎士がそれを嫌がったり茶化したりせずに「ああ」と頷くから