デモやストライキを迷惑行為だと考える歪んだ価値観を植え付けられた人が一定数いるようだが、「デモやストライキを憎悪する」方が全き迷惑行為だよ。それで現実的に被害が生じている。沖縄で西村博之がやったことをみれば明らかだけど、個人的な感情と、他者の権利侵害を決定的に取り違えている。
「暴力は許さない」という掛け声が、かえって国家的暴力を増強する結果をもたらすと言うのが9.11テロの教訓だったはずで、「暴力は許さない」掛け声の合唱は、そこに権力の管理的介入の余地を与える。重要なのは、暴力が噴出した社会関係を問うことだ。政治家は絶対言えないだろうから俺が言っておく
敢えて誤解を恐れず言えば、どこでもいいからまず選ぶ。ちゃんと自分の腹で未来を選択する経験が何よりも大事なのに、そこで「若者は白票入れて意思表示しよう」とか吹聴していた批評家とか、ほんと張り倒したくなる。
「どこも信用できないから僕は白票」という意見、このところ複数人(若者)から聞いた。白票で投票率上がれば、流石に若者の存在に気づくでしょ? とまで。 この白票信仰、少なくない人に広まっているようで、わざわざ棄権した奴らの声を権力が聞いて汲んでくれると思っている時点で認識が甘すぎる。
>非査読論文は自然科学の世界では「不確か極まる代物」としか看做されず研究成果にもなりません。「読んで説得力がある」では駄目なのです。 そうですか。 理科の教科書は「説得力がある」非査読物ですが、これは自然科学では「不確か極まる代物」としか見做されないんですねよく分かりました twitter.com/ShimofusaSakai…
この問題は、虚構の仮想敵を不当に攻撃・嘲笑する形式性において、安倍政権誕生以後に生まれた「アベガー」という言葉のようなもののもつ機能に連続していきます。続きます。
この仮説を立証するには、大学の研究室への科学人類学とTwitterの多変量解析が必要。「反原発憎悪の社会学」、このテーマで誰か切実に研究してほしい。
当たり前の話だが、彼らは原発の専門家でもなければ公共政策や社会運動の専門家でもない。 なんで震災後こんな反原発憎悪が撒き散らされたのかというのが大きな論点。一つには反原発憎悪は東大理系研究室の中で既に主流な言説だったのではないかということ。もう一つはTwiiterの拡散力。
なお、「理系学生」や高専関係者に多かったのは私の肌実感だが、震災直後理系の学生に会うとお決まりのように反原発の「ヒステリー」を叩きまくる話ばかりされ、とりわけ山本太郎はその標的にされやすい傾向にあったように思う。
一つ確実に言えることは、この概念のようなものの背景にある「市民的なもの」(と彼らが思うもの)に対する猛烈な敵意であり、この表出が、ありもしない反原発像をつくりあげて嫌悪する、という歪んだ表象を生み出した。
さらなる問題は、そこで想定されている「市民」の像が相当に歪んでいることである。このような仮想敵の〈虚構性〉こそが、この言葉の本質にある。
問題は、この概念のようなものによって放射能を放出させた行政や企業の責任が、「不安になってる市民の問題」にすり替えられる形で押し付けられること。私はこれほど卑怯で醜悪な用語を見たことがない。
「放射脳」は事実認識としても社会概念としても明らかに不当な概念だが、3.11から2年くらいこの単語のようなものを使って誰かを侮蔑嘲笑しては感情をぶつけて遊ぶ人が(とりわけ「理系」の学生や自称評論家に)多くみられた。
侮蔑語の社会学。いまだに「放射脳」という概念らしきものを使う人を見かけたのでいい機会なので書いておく。とてもだいじな問題。